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葬想式がグッドデザイン・ニューホープアワード 優秀賞を受賞しました!
葬想式がグッドデザイン・ニューホープアワード 優秀賞を受賞しました!
葬想式を運営するむじょうの共同創業者でエンジニアの佐々木です。 先日、 2022年度グッドデザイン・ニューホープ賞 にて、葬想式が 優秀賞 を受賞しました! これまで利用していただいた全ての皆様のおかげです。本当にありがとうございます。 今回は受賞の経緯とこれまでの葬想式の歩みについて詳しくご紹介させていただきます。 学生版のグッドデザイン賞「グッドデザイン・ニューホープ賞」 みなさん一度は聞いたことや目にしたことがあるグッドデザイン賞。 Gのマークでお馴染みですね。 これは1967年に創設された、日本で唯一の総合的なデザイン評価・推奨の仕組みです。 “デザイン”といえば、インテリアデザインやプロダクトデザインといった、モノのデザインがイメージされることが多いと思いますが、実は、グッドデザイン賞は「情報」や「仕組み」などの幅広いデザインを対象としています。 そして今年2022年に新たにグッドデザイン賞に、学生と新卒1年目までを対象とした「グッドデザイン・ニューホープ賞」が、設立されました。 葬想式を運営するメンバーが学生であること、そして葬想式をより多くの人に知ってもらうきっかけになればと思い、応募させていただきました。 大変嬉しいことに、 応募総数414点の中から、優秀賞8点の中の一つ に選んでいただきました。 これまでご利用いただいた皆様、応援してくださった皆様のおかげです。本当にありがとうございます。 これまでの葬想式の歩み きっかけは二人の大学生の会話から 実は、葬想式は大学生二人の会話をきっかけにはじまったプロジェクトです。 2020年4月、世界でコロナウイルスが流行り始め、イタリアで葬儀が中止になっていると聞いた前田(当時大学1年生)は日本も同じような状況になるかもしれないと考え、同じ大学の友人である私佐々木に声をかけました。 将来の日本に必要になるであろうサービスを一緒に作れないかと相談された私は、すぐに「いいね、作ろう」と返事しました。これには訳がありました。 祖父のお葬式で流したスライドショー 実は前田から声をかけられる1年前、私の祖父が亡くなるということがありました。 私は高校生の頃から海外を放浪するため通信制高校に通いたいなどたくさんのわがままを言ってきました。 しかし、私の祖父は、どんな選択もいつも後押ししてくれるとても優しい人でした。 そんな祖父の葬儀でできることは何かでできることはないかと考えた私は、思い出の写真をスライドショーにして葬儀で流すことにしました。 LINEやメールを使って親族のみんなが持っている写真を集めて動画を作成。 葬儀当日、参列者の人はみな式場の後ろに固まってモニターに釘付けでした。 おじいちゃんの友達たちが、「あら〜こんなところに行ったのね〜」「いい写真だね〜」と笑顔で話していました。 私はこんな形の葬儀も良いなって思いました。 コロナで縮小してく日本の葬儀の規模と違和感 そして2020年、日本でもコロナが流行り始めました。 葬儀の規模は縮小、そして日本の葬儀業界ではzoomを使って葬儀を配信するというオンライン葬儀が登場。 しかし、何かしっくりきませんでした。お焼香ができるわけでもないし、落ち着いてゆっくりと思い出話ができるわけでない。そんな「オンライン葬儀」に違和感を覚えていました。 葬儀の役割と抜け落ちていたものの発見 そこで私たちは、そもそも葬儀とは何なのかということを考えることから始めました。 葬儀には様々な要素があり、それら役割で整理すると、以下のように分けることができます。 この役割の中でも、葬儀が縮小していく流れの中で抜け落ちがちになっていた「心理的な役割」にフォーカスしてサービスを開発しました。 3ヶ月間で仕様策定からリリースまで 最初の前田との会話からリリースまで3ヶ月間で、一気に仕様を策定し、デザインし、開発を行いました。 ユーザーの声をもとに、改善の日々 葬想式はリリースしてから2年半、のべ3700人以上の方に利用していただきました。 「父の知らなかった姿を知れた」「家族の歴史を知れてよかった」「やってよかった」といった温かい声がたくさん届いています。 また、ユーザの方から頂いた声をもとにに、デザインや機能の改善を多数行ってきました。 その一部をご紹介いたします。 思い出を重荷にしない、「葬想録」 人は身近な人が亡くなると、そこからその人がいた日常からいない日常へと変化していかなければなりません。その時、時間経過を感じづらいデジタル上の思い出は時に心の負担になってしまいます。 このような理由から、葬想式はサイトを見ることができるのは3日間限定にさせていただいています。 この3日間という期間もユーザーの方とのやり取りの中で設定されました。 一方で、せっかく集まった写真をまた見れるようにして欲しいといった声も多く寄せられました。 そこで、葬想録という紙のアルバムをご用意しています。 紙は劣化などの変化を通じて、時間経過を感じられます。この葬想録には、葬想式を卒業し、自身の生を生き切って欲しいという願いが込められています。 言語を超えて利用したいとの要望に応えるべく、「多言語対応」 葬想式は日本国内のみならず、アメリカやメキシコ、ヨーローパなどで利用されることが増えてきました。 @youtube 最初は翻訳版のマニュアルを作成するなどしていましたが、ユーザーが投稿したテキストも読めるように翻訳機能も含めた多言語対応をいたしました。 葬儀に参加できた人もできなかった人もみんなで偲ぶ「スライドショー機能」 また最近では再び友人を招いた葬儀や偲ぶ会も増えてきました。 一方、遠方で葬儀に参列できないといった人も含めて皆で葬想式を使いたいという声が多く寄せられました。そこで式場でもお手元のスマートフォンでも再生できるスライドショー機能をリリースしました。 集まった写真を音楽と共に再生していただくことができます。新たに写真が追加されても自動でスライドショーに追加されます。 最終プレゼンテーションについて @youtube 今年のグッドデザイン・ニューホープ賞は応募総数414点あり、91点が入賞しました。そのうち各カテゴリーの上位2点、合計8点が優秀賞として最終審査に進みました。 葬想式は、惜しくも最優秀賞を逃してしまいましたが、それでも優秀賞という光栄な賞をいただき大変嬉しい限りです。 わかりやすく、共感してもらえるプレゼン 最終プレゼンは、プロダクトデザインから、建築家、アーティストまで各分野のデザインの専門家による審査が行われました。 全員がWebサービスの専門家ではないので、できる限り専門用語を使わずにわかりやすいプレゼンテーションを心がけました。 > また、プレゼンの構成は、「Why」「How」「What」の順番になるようにしました。 これは人はWhyから説明された方が心がうごきやすいという性質を利用しています。 @youtube 100%の力を発揮できるように行った入念な練習 どんなにプレゼンテーションに慣れている人でも、練習無くして最高のパフォーマンスを発揮することはできません。かの有名なスティーブ・ジョブズも一言一句、スライドを切り替えるタイミング、間なども含めて完璧に練習していたと言われています。 最高のプレゼンをするために、プレゼンは数日間に渡り、かなりの時間を費やして準備を行いました。 原稿の暗記はもちろんのこと、実際にプロジェクターに繋いでプレゼンをしたり、会場の見取り図を頭に叩き込んで演台からの景色をイメージするなど、できることは全て行いました。 また、プレゼンテーション当日はなるべく緊張せずにスムーズに話せるよう、朝早くに会場近くの公園でぶつぶつ喋りながら練習をしていました笑(散歩している人には少し怪しまれました) 最後に 私は中学生の頃にプログラミングを始めて、これまでたくさんのアプリやサービスを作ってきました。しかしこれだけ多くの人に利用されるサービスを0から作ることができたのは葬想式が初めてです。 これまで利用していただいた全ての皆様、そして応援してくださった全ての方のおかげです。本当にありがとうございます。 これからも多くの人の心に寄り添えるサービスを作り続けていきます。 グッドデザイン・ニューホープ賞 https://newhope.g-mark.org/ 2022年度グッドデザイン・ニューホープ賞 優秀賞 葬想式紹介ページ https://newhope.g-mark.org/award/22NHA040002.html 葬想式 https://www.sososhiki.jp/
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2022年12月12日
自宅葬のここ クリエイティブ制作の過程を公開!
自宅葬のここ クリエイティブ制作の過程を公開!
こんにちは、株式会社むじょうでデザインを担当しています、中澤希公(きく)です。『棺桶写真館』『死んだ母の日展』『死んだ父の日展』といったむじょうを代表する企画の立ち上げに参画してきました。 この度、2022年10月にリリースした自宅葬専門葬儀ブランド「自宅葬のここ」のクリエイティブを作成しました。ブランドは共感を生み、特別な存在となり、ファンを集めてはじめて「ブランド」を名乗ることができます。自宅葬のここがブランドへと成長していく第一歩として、その生い立ちについてまとめました。ぜひご覧ください! ブランド名「ここ」に込めたこだわり まず、「ここ」という名前がどのようにできたのかからお伝えしていきます。 そもそも、皆さん自宅葬をご存知ですか?自宅葬とは、アパート、マンション、一軒家など、普段生活している自宅で執り行う葬儀の形です。1960年頃までは自宅葬が主流でしたが、医療の発展、核家族化、地縁の希薄化、高度経済成長などの影響を受け、自宅葬の数は減り、式場中心の葬儀へと時代が変化していきました。現在は、自宅葬は全葬儀の5%と言われています。しかし、2015年の介護保険法の改正など、自宅で看取りが増加する仕組みの整備や葬儀の小規模化によって、今後自宅で小規模のお葬式をあげる需要が増えてくると見込まれています。 葬儀業は、ぼったくられそう・わからないから怖いなどネガティブなイメージを持たれがちな業種です。しかし、大切な人のお見送りをサポートしてもらう重要な役目を任せる相手でもあります。少しでも、親しみを感じてもらえるような名前にしたいなとアイディアを出していきました。届けたい価値を抽象化したり、花言葉からヒントを得たり、イントネーションから考えてみたり...全部で50案出して、そこからディスカッションして決定しました。 アイディアの一部 たくさん出た案の中で、「ここ」は私の推しでした。「此処(ここ)」で死にたいを叶え、「個々(ここ)」の願いと向き合い、「戸戸(ここ)」にあった空間をつくる。名前に込めた思いをプレゼンし合う中で「これはいい!」とメンバー全員が共鳴し決定しました。 葬儀屋では珍しい暖色系がブランドカラーになった理由 次に軸となるブランドカラーを決めました。葬儀というのは非日常的な体験です。自宅葬を行う家とご遺族が生活する家が同一の場合、葬儀を終えた後も自宅で日常を送ることになります。故人様のことを思い出したり、お供えをしたり、手を合わせたり、自宅という存在が、ただ日常を過ごす箱ではなく、故人様との繋がりを保つ場所になるでしょう。そのため、自宅という日常の空間に葬儀という非日常を持ち込み、生と死の境界を曖昧にするようなカラー4種類を起案し、決定しました。 1色目は、肌色です。人間の肌の色を作るメラニンの色を採用することで、死体としてではなく死人として扱う意志を示しています。 2色目は、マンダリン色です。この色は、マリーゴールドの花の色から抽出しました。この色とは、ディズニー映画の『リメンバー・ミー』を鑑賞した時に出会いました。この映画はメキシコが舞台になっており、死者の日という日本でいうお盆のような日について描かれていました。死者の日に、マリーゴールドの花を家や墓地に飾り、死者が迷わずに生者がいるこの世へ戻ってこれるようにしている世界観に強い印象を受けました。ここでは、死者と生者が出会うために用いられている花のカラーとして採用しました。 3色目はグレーです。グレーは白でもなく、黒でもありません。生=白と死=黒の境界線を解きほぐすカラーとして採用しました。 4色目はホワイトです。大切な人を亡くすことは、人生の中で最も悲嘆が強い体験と言われています。葬儀は、大切な亡くなった人のことを考え、自分の心の中を整理できる喪の仕事ができる時間です。故人様を送り出すだけではなく、ご家族の方の新しい日常のスタートをサポートするため、この色を採用しました。 フォントは高齢者に優しいものであること、感情が揺さぶられている時にも認識しやすいものを採用しました。 自宅葬経験者の声をヒントに紡いだキャッチコピー ブランド名・テーマカラー・フォントが決まってきたところで、自宅葬のここが大事にする一つのキャッチコピーを作りたいという話になりました。まずは葬儀屋さんが使用しているキャッチコピーを分析しました。その結果、「信頼」「安心」などの言葉だけでは伝えることが難しい単語が用いられていることが多いという気づきがありました。 葬儀の失敗は許されません。信頼や安心が必要で、それをお客さまに届けたいと考えることも納得できました。しかし、私たちは温かさや親しみやすさが伝わり、「お客⇄葬儀屋」ではなく「葬儀を一緒につくりあげるパートナーとしての関係を築きたいと思いました。 ネット上の記事に書かれている自宅葬のメリットは 6畳でも葬儀を行うことができる。 時間を気にせずにゆっくり過ごせる。 住み慣れた自宅で送り出せる。 葬儀場を使用しないため費用を安く抑えられる。 などがあります。さらに自宅葬の良さを生み出すために、自宅葬を経験した人にアンケートを取りました。綺麗事のようにまとめられた記事とは違い、アンケート結果にはあたたかさがありました。感情しやすい私は泣きながら記事を読んでいました(笑) その中でも特に私の心を動かした声は、犬と一緒に過ごせてよかったという声でした。葬儀というと、喪服の人が沢山参列しているシーンが頭によぎります。ペットが参列する葬儀はこれまで映画やドラマなどでもみたことがありませんでした。ペットも家族の一員でありかけがえのない存在です。 式場の規則上、ペットは連れて行けないと諦めてしまうことや、赤ちゃんが泣いてしまったらどうしようという不安がありますが、自宅なら心配ありません。 そして、「泣いても、鳴いても、大丈夫」というキャッチコピーが生まれました。 大切な人が旅立つのはとても悲しい出来事です。私は大切な人を亡くした遺族会に足を運び、グリーフケアについて学んでいました。遺族会のスタッフは参加者の方に「大人だって強がらずに泣いても大丈夫。」という言葉をかけます。お家だからこそ自分のありのままの感情をさらけ出せる葬儀をつくりたいと願いこのキャッチコピーにしました。 思い出や感情がおもちゃ箱のように詰まったお家 最後にロゴを作成しました。皆さんのなかに葬儀屋と言えば〇〇という葬儀屋が思い浮かびますか?全日本葬祭業協同組合連合会によると、平成29年の時点で葬儀社は4000社〜5000社あるそうです。その中で特別な存在と認識され、記憶に刻んでもらえるロゴを作成しなければならず、どの方向性でシンボルを決めていこうか悩みました。コンセプト重視だけではなく、自宅葬のここのサービスを多くの人に届けるために、マーケティング(誰に・どのような価値を・どう届けるか)の部分からもロゴを考えて作成していきました。 既存の葬儀屋のロゴを分析し、①タイポグラフィックのみ ②シンボル(カラー主張) ③シンボル(カラー主張なし)の3つのタイプで比較していきました。 ①タイポグラフィックのみ を選択すると、自社の名前を覚えてもらえるメリットがあります。しかし、まだ自宅葬のここはスタートしたばかりで広告費にお金をかけることができません。そのため、ロゴとの接触機会が少なく、名前を覚えてもらうきっかけを提供することができません。そのため、ここのロゴと接触する人が少なかったとしても、どんな葬儀屋さんなのかを瞬時に理解してもらえる方向性でロゴを検討しました。 アイディアの一部 ブランドカラーであるオレンジ色が目立つため、②シンボル(カラー主張) の方向性がいいと判断しました。そして、シンボルは抽象的なものではなく、どんな葬儀屋なのかを瞬時に理解してもらえるように、「天国」や「送り出す」など抽象的なものではなく、家の形を軸に作成することにしました。 丸みや色味を模索していた途中経過 最終的には、たくさんの思い出が詰まった家で送り出すイメージを元にしたこちらのロゴに決定しました。 最後に 私は大好きだった母を中学生の時に亡くした時、母の死と素直に向き合うことができませんでした。亡くなったという事実を忘れたいと思い、部活動に励む日々でした。どこの葬儀屋にお願いをしたのかもわかりませんし、喪主ではなかったので葬儀のスタッフさんと話した記憶もありません。もしも、葬儀の時間にゆっくりと母の死と向き合うことができたら、気持ちよく母を送り出せたのかなと思います。 死への向き合い方は人それぞれですし、急ぐ必要もないと思います。大切な人との死別と向き合う第一歩として、心残りなくきちんと送り出す葬儀のお手伝いができるよう、社員一同精進します。自宅葬のここをよろしくお願いします!
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2022年08月14日
葬想式を3000人にご利用いただくまでの歩みとこれから
葬想式を3000人にご利用いただくまでの歩みとこれから
葬想式をリリースした2020年7月から2年が経ち、利用者数が3000名を越えました。お別れできる・できないの「間」となる選択肢をつくるべく、数々の施策やモデルチェンジを行い、今に至ります。そのプロセスの断片と、葬想式の次の一歩について、この機会にまとめてみようと思います。 葬想式の歩み 「オンライン葬儀」からの脱却 新型コロナウイルスの影響が日本に出てから、多くの業界でデジタル化が進みました。 葬儀業界も同じく、デジタル化を進める動きとしてオンライン葬儀システムが多く登場。葬想式も葬儀に付帯するオンライン葬儀システムの1つとしてスタートしました。 オンライン葬儀システムの多くは香典の決済機能や供花の受注機能を有しています。この機能が葬儀社の葬儀単価アップに寄与するということで葬儀社に導入してもらい、ご葬家への紹介でユーザー数を増やしていこうという狙いが各社にあったかと思います。 リリース当時、葬想式は香典の決済機能や供花の受注機能がなく、写真やメッセージを追悼サイトにアップロードできるだけの仕組みでした。後々、香典や供花の受け渡しができる仕組みも検討していましたが、そのような仕組みを導入せずに今日に至ります。 葬想式が「オンライン葬儀サービス」ではない方向へと進んだ理由は次章で詳しく述べます。 葬儀社にとって金銭的なメリットがないサービスへ 死を悼むためのサービスの販売機会は葬儀社が握っています。新しいサービスを1人でも多くの方に届けるには、葬儀社に扱ってもらいやすい設計をする必要があります。しかし、葬儀社とエンドユーザー(ご葬家)の合理性は必ずしも一致しません。例えば、葬儀社としては1基でも供花が多く出たら売上になりますが、ご葬家からするとお礼をどうするかなど考え事が増えてしまうことにもなります。お花に限らず、お香典もいただいたらお返しを必要としますし、ご葬家の中には金銭を介するお気持ちをいただくことに前向きではない方も多くいることが分かってきました。 そこで、葬想式は香典や供花の受け渡しの機能は省き、思い出の写真とメッセージを共有できるという体験に絞ることにしました。 他のオンライン葬儀システムにもシステムにも思い出の写真とメッセージを共有できる機能があるため、機能面では葬想式の方が少ないことになります。 それでも、金銭を介するやり取りのないサービスを求めているご葬家へ向け、地道にユーザー体験の向上に努めてきました。 葬儀社に販売してもらうモデルだと、下代を設定し、それに葬儀社が上乗せして販売することになるため、葬想式を無料で提供することはできません。私達がやりたかったのは、「お別れできる・できない」の間をつくること。つまり、金銭的な理由でお別れを諦めない選択肢になることです。そのために、利用料の無償化はいち早く実現したいことでした。 葬儀社に頼らずにサービスを届ける方向を決めたことで利用料無料での提供に踏み切ることができ、葬想式で集まった写真やメッセージを紙のアルバム(葬想録)にして販売するというビジネスモデルをつくることができました。 集客はサービスを知ってもらう機会としてコンテンツマーケティングを行い、コンスタントに必要としている方に届くようになってきています。 葬想式の次の一歩・英語対応 距離と時間を越えた弔いの追求 葬想式に関するお問い合わせの中で、英語圏、スペイン語圏の方からのお問い合わせも増えています。半年ほど前から構想していた多言語対応の第一歩として、2022年7月20日より葬想式の英語対応を開始しました! やはり、コロナの影響で海を跨いでお葬式に駆けつけるということが難しくなっています。また、今は飛行機一つで色々な国を訪れることができ、世界各国に友人ができる時代です。一堂に会する形での葬儀のみでなく、それぞれの場所から偲ぶことができるという選択肢を組み合わせることで、お別れを諦める人を減らすことができます。海外のお葬式に参列することが難しい状況であるからこそ、葬想式がお役に立てればという気持ちで英語対応に踏み切りました。 海外の友人を亡くした方、海外のご友人が多くいらっしゃった故人のご家族様など、1人でも多くの方に届くよう、マーケティングも強化していきます。 最後に いま、2020年7月当時のデザインやサービスの仕様をみると、至らない点が多々見受けられます。初期にご利用いただき、フィードバックをくださった利用者様のお陰様で今の葬想式があります。皆さんに育ててもらった葬想式が、より役立ててもらえるものになるよう引き続き頑張ります...!! 葬想式のサービス向上・マーケティング力強化を目的に、積極的に採用をおこなっております(大学生バイト・インターンも可)ので、少しでもご関心お持ちいただけた方は、こちらのむじょう公式サイトのお問い合わせフォームよりご連絡ください! 最後までご覧いただきありがとうございました!!!
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2022年07月27日
連載:トイナオ死 #1「無常観を問い直す」話:株式会社むじょう 前田陽汰
連載:トイナオ死 #1「無常観を問い直す」話:株式会社むじょう 前田陽汰
大きな消費的な時代の流れの中に我々は飲み込まれ、問うべき重要なことと向き合えていないのではないか——— そうした危機感から、人々が死をはじめとした根源的な問い(自らの人生の理想的なあり方や幸福観、死生観など)に向き合う機会を作ること、つまり人々が「生きること、死ぬということを問い直す」ための一助となること、「死を問い直す」ことをテーマに掲げ、本連載『トイナオ死』は始まった。 第二回である今回は、株式会社むじょうの代表である前田陽汰をたずねた。前田は、「葬想式」や「死んだ父の日展」などの事業を通じて、「無常観というメンタリティを日常に溶かす」ことを目指し活動している。 死を問い直すことの第一線にいる前田にとって現代社会において「死」というものがどのようにうつっているのかを語ってもらった。 ネガティブな変化に優しいまなざしを向けること ——— まずは前田さんが代表をなさっている株式会社むじょうでの活動について伺っていこうと思います。HPを拝見したところ、むじょうではvisionとして「変化にもっとやさしく」が、そして「右肩上がりを問い直す」「他者の合理性に思いを馳せる」「インターネットに血を通わす」がpolicyとして掲げられています。これらの言葉の意味について伺いたいです。 社名が「むじょう」(無常)です。つまり「常はない」という前提に立ち、常に同じものは無いという世界の捉え方をすると、 世界は常に変化し続けている ことになります。 いろんな変化がありますよね。人間が生まれてから成長していくのも変化だし、成長を積み重ねていくといつしか老いていくのも変化だし。とにかく人は変わり続ける。 その中でも、まなざしが向けられない変化、向けづらい変化ってありますよね。例えば、弱っていく人っていうのは、喜んで直視したいものではないですよね。 ——— そうですね。見ていて辛くなることもあります。 「エモい」という感覚にならないものかもしれません。何かがなくなってしまうことや、なくなっていくのが悲しいことなどですね。昔遊んでいた公園がなくなっちゃったり、柵などで囲われて工事中だったりしますよね。そういうのを目にして、「思い出がまた一つなくなってしまう」と思うような、そういうような変化ってあまり見たくない。 でも、そういう変化も、みんなが喜んで直視している変化と同じ「変化」なんだと思います。最初に言ったように、世界の全ては変化している。嬉しい変化も悲しい変化も、同じ変化であると。 だから、片方を照らして、もう片方を隠す…みたいな見方をするのではなく、 見たくない変化にも優しい眼差しを向けてあげる余地があるんじゃないか という投げかけですね。逆に、そういうまなざしを向けないと、人口が減って縮退していくこれから、しんどくなるんじゃないかと思います。そういう意味で「変化にもっと優しく」ですね。 ——— なるほど。ここまで伺っていて、「変化にもっと優しく」という言葉の背景には現代が「優しくない」という意識があるのでは、と思ったのですが、もし「優しくない」のだとすれば、それはどういうところだと思いますか? 例えばですが、使われる言葉が優しくないですよね。「限界集落」とか「消滅可能性都市」とか。「消滅」や「限界」は社会通念上ネガティブとされる側にあるじゃないですか。そういうものに冷たさを感じる。「廃盤」とかもそうですね。 一方で、優しい言葉もある。「アンティーク」とかは、希少価値があるということが付与される。全ての言葉が冷たいわけじゃない。でも、「アンティーク」は海外からの言葉で、日本の言葉じゃないんですよね。海外では苔むしたものに価値をおいた言葉がいくつかあるけど、日本だと「味がある」という言葉があるものの、総じてネガティブな言葉ですよね。それが悪いと言いたいのではなく、風潮として、日本にはそういう文化がある。 「撤退」とか「解散」とかも、あまりきれいな言葉じゃないですね。「撤」に「退く」、「解散」も「解く」に「散る」だし。 ——— 変化の中でも、特に目を背けたくなるような変化にはあまりポジティブな言葉が使われている印象はないですね。そういう変化も受け入れていくべきだと。 「受け入れる」というよりは、ある種の選択肢の提示、投げかけですね。別の目線を向けることもできるんじゃないかという提案ですね。 僕らにできるのはそれくらい だと思います。 ———では、そのようなvisionは「右肩上がり」とどう関わってくるのでしょうか? 「右肩上がり」はわかりやすいと思います。「成長すればいいよね」という足し算的な発想。資本主義というのはそれがないと成り立たないわけだけれど、その右肩上がりの直線から漏れていく、右肩下がっていく線もたくさんある。上がっていくことばかりが「良いよね」と言われていると、下がっていく人も上を目指さなければならなくなる。もはやそういう風潮がありますよね。 「足るを知る」というようなメンタリティは美しいけれど、あまり迎合されていない気がします。小学校や中学校でも「この点数が取れたら次はこれを目指そう」となるし、「これでいいんだ」とはなりませんよね。限度があった方が幸せという考え方はあまりありません。 ———では、続いてそうした考えを社会に広めていくためにどう実装、実行していくかについて伺っていきたいと思います。むじょうでは、インターネットを用いたプロジェクトが多いように思いますが。 インターネットの向こう側にいる人たちって、不特定多数の人たちに発信できる分、手紙みたいな手触り感がないですよね。例えば、この記事みたいなオウンドメディアも、記事を書いてネット上に記事をアップロードするわけだけど。その時一般的にはGoogleのアルゴリズムで上位表示されるためにSEO対策をやるわけだけど、そういうアルゴリズムを過度に気にしすぎると、人間に向けて書くというよりGoogleに向けて書いていることになる。でも、それって意味があるんだろうか。 むじょうの思想としては、一番上に上がらなくてもいいから、血の通ったものを二番目、三番目においておこうよ、というものです。そっちの方が、血が通っていて欲しいところに通っているというか、切実度が違うと思います。量産型でアルゴリズムのために書いた記事と、「こういう人のために書きたい」と読む人の顔を想像しながら書く記事は全然違う印象を与えるはずだし、そういうのは読者もわかる。これは血が通っているな、とかそうでないとか。 血を通わせたものを届ける 。そういうことを信条にしているからこそ、policyにそう(「インターネットの血を通わす」)書いている。 インターネットに限らず、これはいろんなこと、例えばご高齢の方でも使い易いUXを考えることや、電車の中で席を譲ることと同じだと思う。向こう側のこと、相手側のことを考える。現実世界と同じように、相手の立場からインターネットのサービスを作りたいと思っています。 現代は生きることの希少価値が下がっている ——— ここまでむじょうとしての前田さんの活動を伺ってきましたが、今度は前田さん個人としての問題意識を伺っていきたいと思います。大学では最近、死や死生観の研究に取り組まれていると伺っていました。命は誰のものかといった問いに代表されるような、死生観が持つ現代での役割、人々からの受け止められ方とこれからについて伺っても良いでしょうか。 今か。難しいですね。まずは少し前のことを考えてみましょう。医療は少しでも死なないように、生きやすいように進化してきました。それで達成されたのが、死ななくていい社会ですよね。少しの病気なら治せるし、ずっと生きやすくなった。 生きることを渇望していた時代 から、今度は切実に生きたいと思いづらい、 死ぬことを想像しづらい時代 になった。死ぬことを想像できない。生きることは尊いということは道徳の授業では習うけど、リアリティがない。 現代はさっきも言ったように、死というのは相変わらずよくわからない、わからないから怖いということもあるだろうけど、現実感がない。「野垂れ死ぬ」という言葉があるけど、人が野垂れ死ぬことはなくなった。 でも「野垂れ死ぬ」という言葉があるということはかつて野垂れ死んでいた人がたくさんいたわけで。今もその言葉が残っているということは、人々が野垂れ死んでいたのは大して昔でないということですよね。死を排除することに成功したのが、今なのかなと思います。 それで、これからどうなっていくかという話ですが、死はまずます身近なものがなくなっていくと思います。死に場所も家から病院へ移り、特定の場所になってしまった。 これからますます生きられる時間は延びていくと思うけれど、「何のために生きているか」という問いはより重要な問いになってくると思います。より生きられるようになったけど、そもそもなんで生きているんだっけ、という感覚に陥りやすいのではないでしょうか。生きることの希少価値が、下がっている。 これからどうなるかはわかりませんが、どうなっていったらいいかについては、生きることも死ぬことも選択できればいいと思います。 長く生きていることがいいという前提で物事は発展してきたけど、本当にそれが幸せなんだろうか、ということは結構多くの人が感じると思う。だから、逆に死の希少価値が上がったんです。なかなか人が死ななくなったことで、死はレアなものになった。 コロナ禍と死生観 ——— これから死がどうなるかということはたしかに予測できないかもしれません。ですが直近で目に見える変化として、コロナ禍の到来があります。前田さんの視点からは、コロナ禍で人の死というものはどう変わったでしょうか。あるいは、変わっていないとお考えでしょうか? 「コロナで生が身近になった」と言われますが、「身近になったのは数字上でだけじゃん」と思いますね。死亡者数も数字だけで表されている。確かにコロナ禍で身近な人を亡くした方もいるかもしれませんが、多くの人はそうではない。 遠くに住む親戚などの人が亡くなったら訃報の連絡などに接すると思いますが、基本的に 亡くなったという情報そのものにはリアリティがない です。そもそも、会ってないのと死んでいることにあまり変わりがない。死を捉えるのには、想像力だけだと厳しいですよね。死を意識する機会は増えたものの、その死自体は曖昧になったと思います。 コロナ禍の前には、お葬式に行ったりしましたね。この前まで生きていた人のために、なぜか喪服を着て、なぜか香典を包んで、式場に行く。式場ではご遺体に対面して…など、死を理解するためのプロセスが多くあった。でもコロナ禍に入り、そうした理解のプロセスは省かれつつあります。「ごく身近な親族だけでやります」と言って、遠い親戚や故人の友人は連絡だけ受け取るわけですが、「亡くなった」という実感は湧きづらくなっている。 ——— 確かに、この前僕の知り合いの方が亡くなりましたが、高校を卒業して以来一度もあったことがなかった方で、連絡を受けてもただ戸惑うだけでした。悲しいといった感情よりもまず、実感が湧きませんでした。ショックでしたが、それが悲しみなどに結びつかなかったです。 そうですね。 ——— お話にあったように、コロナ禍でこれからお葬式はよりコンパクトになっていくと思われますが、そのことについてはどう思われますか。 これは時代の要請に応えた合理的なことだと思います。そもそも、ご近所付き合いが都会だとほとんどない中で、そしてコロナもあって一つの場所に同じ時間で集まることが難しくなっている。昔は活動範囲が狭かった分ご近所づきあいというものは多かったと思いますが、今では世界にもいけるし、どんどん活動範囲は広くなっている。だから、一つの場所に同じ時間で行う葬式が難しい中で、お葬式が小さくなっていくのは合理的なことだと思います。 そこで考えたいのは、どうやって 血縁以外の人の死を、つまりお葬式という場所で得ていた死のリアリティ、手触り感を補完するか ですよね。別に補完しなくてもいいという考え方もあるかもしれませんが。しかし死のリアリティを感じる機会がなくなっていくと、死が曖昧なものになっていってしまうと思いますね。 死に触れることで人は「締め切り」を意識できる ——— あえてお聞きしますが、死が曖昧であることはいけないことなのでしょうか?ある種の快適な暮らしの実現であると思いますが。もし人々が死というものを考えなくなったら、どういう問題があるのでしょうか。 死が見えなくなった社会を否定するつもりはありませんが、人は必ず死ぬわけじゃないですか。人の死を見る、つまり人は死んで硬くなって棺に収められるところを見て、自分が死ぬと具体的に自分がどうなるのかを知りますよね。 確かに死ぬことを意識しなくても人は生きていけますが、死というものを考えないと、締め切りを意識することがなくなってしまう。締切があるから仕事をすることができるように、死という締め切りを意識しなければ、良く生きることができないんじゃないかと思います。 ある意味、葬式などの機会で死を意識することは、死を活用して、 他者の死を足場にして人間は生きていきてきた んだと思います。命のサイクルとしてはそういうふうに人は生きてきたんだと思います。 もちろん本人は足場にして利用しているつもりはないかもしれませんが、死というものは少なくともそういうものとしても機能してきました。 ——— 「死を活用する、足場にする」というのは人によっては抵抗感のある表現かもしれませんが、確かに他者の死を目の当たりにすることで人は自分の締め切りを意識し、「死ぬまでにこれはしよう」のような、よく生きるためのことを考えるきっかけを得ていたのかもしれません。 死と出会いたくない人にとっては、そのままでいる方が幸せかもしれません。それは人によって違うと思います。少なくともむじょうにおいては、死は活用できるものだし、死が近くにあった方がより良く生きることに役立つという前提に立って動いていきたいと思います。
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2022年07月03日
子供に死を教えるには?死の説明・向き合い方についての思索
子供に死を教えるには?死の説明・向き合い方についての思索
幼い子供にとっての死とは、一体どういう事象なのでしょう? おもちゃが壊れてしまうことやアリを踏み潰してしまうことと同じでしょうか。 死は、いつも一緒に遊んでいるペットや、優しい祖父母、大好きな親や、友達、そして自分にも、必ず訪れるものです。 生まれてはじめて身近な人の死に直面した子供は、その人死をどうやって理解し、受け入れていけばいいのでしょうか。 死は、宗教観やその人の死生観によって違いのある、大人にとっても難しい概念です。それを幼い子供に理解させることは難しいでしょう。 ですが、いつか訪れる大切な人の死でお子さんの心が壊れすぎないように。 大切な人の死を忘れることなく自身の日常を過ごしていけるように。 死に関わる言葉で誰かを傷つけてしまわないように。 幼少期に何らかの形で死に触れることは、お子さんの人生観を育む大切な経験となるはずです。 お子さんの大切な人に死が訪れた時は 必ずしも葬儀に参列させなくても良い お子さんにとって大切な人が亡くなった時、お子さんの年齢や性格によっては、お子さんが遺族であったとしても通夜やお葬式に参列させることは必ずしも最善であるとは限りません。 死の意味もわからないのに、大人が大勢悲しんでいるお葬式の場に連れていくことは、お子さんのお別れの気持ちより恐怖が先立ってしまった結果、ただお子さんに怖い思いをさせてしまうただけに終わるってしまう可能性も十分にあります。 参列する意思が子供にあるか確認する もしご両親の意向でお子さんを参列させたい場合でも、お子さんに参列の意思があるのか確認することは大切です。もし渋るようでしたら、無理に参列させるのは控えましょう。 葬儀がどんな場であるか説明する お子さんが参列を希望した場合でも、お葬式がどんな場所であるか、どうしてみんなが悲しんでいるかや、怖い場所ではなくお別れの場所だということ、悲しくなったら泣いてもいいということなど、事前に説明してあげるとよいでしょう。 参列にそぐわない行動をとった場合、落ち着くのを待つ お子さんによっては大人が悲しんでいるのを見て、不安から泣き出してしまったり、注意を引いて笑わせようとしたりする子もいます。 もしお子さんが参列にそぐわない行動をとってしまっても、無理に泣き止ませたり静かにさせたりせずに、一度退席しお子さんが安心するまで待ってあげてください。 葬儀後の心のケアを欠かさない お葬式参列後しばらくしてからでも、お子さんが急に落ち込んでしまったり、夜眠るのを怖がったり、お肉などの食事を摂らなくなったりすることはよくあります。親御さんでしっかりケアしてあげるようにし、場合によっては専門家に相談してもいいですね。 死を教えるのに役立つ絵本 誰にとっても身近な「死」を伝える 死は、未来のある子供には、まったく関係ないように思えます。 しかし、現在においても妊娠初期の流産確率は8~15%です。今生きている人はみんな、産まれる前にその確率を踏まなかっただけにすぎません。これから大きくなるお子さんも私たちも、人生最初の死線をくぐり抜け、生きているのです。 そうして産まれたお子さんの誕生を祝福する気持ちには死を回避したことへの安堵も含まれているのではないでしょうか。 既にくぐり抜けた死の可能性をきっかけに、お子さんと死について話してみてはいかがでしょうか。 「命あるものにはいつか死が訪れること」「死はとても悲しいこと」「誰かの命に死が訪れても、他の命は続いていくこと」など、大人にとっては当たり前のことを子供にもわかる言葉で伝えてあげることが、お子さんが自分のことをかけがえのない存在だと知るきっかけになるといいですね。 その他、親御さんが大切に想っていた故人とのあたたかい思い出や、親御さんが故人の死をどうやって受け入れていったかなどを聞かせてあげたり、死をテーマにした絵本を読み聞かせてあげたりするのも良いでしょう。 悲しい死をまだ幼い子供に教えることに抵抗がある方もいらっしゃるかもしれませんが、死を悲しむのは、自分以外の人を大切に想うことの表れであり、お子さんが自分以外の人を想う気持ちも大切にできる大人に育つために必要な知識のひとつです。 おすすめの絵本 「うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん」 どんな年齢のお子さんにもおすすめの絵本として、『うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん』があります。うさこちゃんがだいすきなおばあちゃんを亡くし、悲しみの中でおばあちゃんに感謝とお別れを述べ、お葬式でのお別れの後も毎日おばあちゃんのお墓に花を供えることで、うさこちゃんの日常におばあちゃんの死を受け入れていくというストーリーの絵本です。 > ") 「大切な人の死」「悲しみ」「誰かの死の後も生きていくこと」を優しく描いている内容なので、大切な人の死に直面してしまい、落ち込んでいるお子さんにもおすすめの一冊です。 まとめ みなさんは子供時代に大切な人を亡くしたことはありますか?その時のことを覚えているでしょうか。その人との思い出は覚えていますか。 もしなにも覚えていなくても、その人のことやその人の思い出は、人伝で聞いたり写真を見たりして、「もう覚えていないけど大切な人」として胸の内にいらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 お子さんがいつか大人になった時、「覚えていようが覚えていまいが、その人のことをどれだけ大切に想うことができるか」を考えた時に、子供の頃から死と正しい距離感で向き合うことは重要です。 寿命通りにいくと、親は子供より早く死にます。お子さんが死と正しい距離感で向き合う為のサポートをすることは、子供より早く死ぬことしかできない親の勤めであると言えるのではないでしょうか。 大切なお子さんが大人になっても、大切な人の死を悲しみ受け入れられるように、親子にとっての「死との正しい距離感」を測ってみる機会があってもいいと思いますよ。
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2022年05月12日
死んだ母の日展で集まったメッセージを紹介
死んだ母の日展で集まったメッセージを紹介
母の日に天国へのお母さんへ想いを綴る「死んだ母の日展」。今回は集まったメッセージを幾つか紹介させていただきます。 死んだ母の日展とは 死んだ母の日展はお母さんを亡くした人が、天国のお母さんへ手紙を綴れるオンライン展示会です。特設サイトから手紙を綴り、匿名で展示します。死んだ母の日展は母への感謝だけ伝える場ではありません。近況報告、懐かしい話、愚痴、恨みなど、伝えたいことをそのままに発散できる場です。 https://mmmm.sososhiki.jp/ 投稿紹介 1週間前に亡くなった母への手紙 > 「毎日夜勤してもずっと起きててくれて、ご飯作ってくれてありがとう」 > 「ちゃんと親孝行も出来ていないのに本当にごめんね」 > 「父さんも頑張ってくれているけど、一緒にいることが多くてしんどくなってきてしまった」 感謝だけはない、お母様へ伝えたい感情がそのままに綴られています。 死んだ母の日展 | 死別当時23歳の私から享年51歳の母へ 60年前の母の姿を兄弟と振り返る > 「当時では晩婚だった母は三人の子供を残して、私の小学校の入学式の日に旅立ちました。」 > 「弟の誕生日がお葬式当日と、60年経った今も忘れられません」 こんな文章から始まるお手紙。誰かの心に生きるってどんなことなんだろうと考えさせられるお手紙でした。 死んだ母の日展 | 死別当時6歳の私から享年39歳の母へ ママと今は絶対に会いたくありません > 「ちゃんと愛情を注いでくれるお母さんと幼い頃死別してしまった人は、お母さんが恋しい、会いたいと思うのが当たり前であるかのように思われていますが、 私はママを恋しいと思ったことは、ありません 」 > 「自分への劣等感で今も苦しいです。でも、 ママと今は絶対に会いたくありません 」 手紙の途中「どうしてそんなこというの」と、驚かれる方もいるかもしれません。しかし、最後まで読むとその言葉に込められた想いが伝わってきます。 死んだ母の日展 | 死別当時12歳の私から享年48歳の母へ 15歳の私が伝えたい溢れ出る母への想い > 「高校最後の部活の公演も、大学の合格発表も、高校の卒業式や大学の入学式も、ママと同じ大学の学生証も、成績表も、ママにみせたいものがたくさんあったよ。ディズニーやUSJだって、旅行だって、海外だって、いっしょに行きたかったよ。ううん、近くのコンビニやスーパーでもいいから、親子隣同士で歩きたい、今でもそんな願いが出てきてしまいます」 > 「最近、いつかこの世で一人になるんだと考えてしまい、どうしようもない不安と闘っています。ばばがママと同じ病気になっちゃったよ」 見せたかった自分の晴れ舞台、親子で歩く友達を見た時の寂しさ。そして、家族の健康について。 お母さんにだからこそ、伝えたいことがたくさんあるんだなと感じました。 死んだ母の日展 | 死別当時15歳の私から享年42歳の母へ 最後に 死んだ母の日展に集まったお手紙をいくつか紹介させていただきました。 母の日は、"感謝を伝える日"だけではなくて、自分の中で言葉を綴ってみたり想いを巡らせる日でも良いのかもしれない。そんな風に感じました。 皆様にとって、それぞれの母の日をお過ごしいただけることを願っています。 死んだ母の日展は、2022年5月8日 23:59まで応募を受け付けております。 死んだ母の日展: https://mmmm.sososhiki.jp/ 死んだ母の日展 投稿ページ: https://mmmm.sososhiki.jp/write
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2022年04月29日
【お葬式のタブーを考える】してはいけないことは、なぜしてはいけないのか
【お葬式のタブーを考える】してはいけないことは、なぜしてはいけないのか
時代と共に文化が変わり、多様な選択肢が生まれた現代においても、悲しみの席であるお葬式は祝い事を慶ぶ席である結婚式などと比べて、変化が受け入れられにくい儀式です。 死者の弔い方には多くのルールやマナーがあること同様、タブーも存在しますが、このタブーは何のために、そして誰のために存在し、なぜ忌避されるのでしょうか? タブーの恩義は誰が受けるのか 死に関するタブーは、大きく「故人のため」「遺族のため」「参列者のため」の三つに分類できます。 故人のためのタブー 故人のためのタブーには、死後の世界で故人が不便をしないようにとの配慮から生まれた、宗教的な意味合いが強いものが多いです。 極楽浄土への道しるべである線香を通夜の晩は絶やしてはいけないという「寝ずの番」も故人のためのタブーです。 あの世はあらゆるものが逆になっているという言い伝えから、故人があの世で不便をしないように死装束などを右前ではなく左前に、横結びではなく縦結びにしてこの世とは逆のことをする「逆さごと」も、宗教的な意味合いをもつ故人のために存在するタブーだと言えるでしょう。 故人を大切に想う人のためのタブー 遺族のためのタブーは、悲しみを増幅させたりフラッシュバックさせる恐れのある行為が多いでしょう。 その人の死を待ち望み準備していたと思われてしまう「香典には新札を使うこと」はタブーとされています。 故人の死の瞬間の悲しみをむやみに思い出させることのないよう「直接遺族に詳しい死因は尋ねること」が故人を大切に想う人のためのタブーに該当します。 大切な人を亡くして悲しむ遺族を不快にさせないようにという気遣いによって生じるタブーなので、厳守するべきもののように思えます。 ところが、「形式化されすぎた、時代にそぐわない振る舞いをしなければいけないこと」は、遺族にも参列者にも「自分らしい悲しみよりも、格式を優先してしまう結果」に繋がってしまっている現実も、やはり存在します。 現在、「家族葬」が多くなり、遺族ではない限り故人とのお別れの場を持つ機会が少なくなりつつあるのは、「お葬式でホストをこなすことよりも、家族の悲しみを優先したお別れの席にしたい」という、尊重されるべき遺族の意向があるからです。 それに伴い、遺族をホストとしないお葬式以外の「お別れの席の選択肢」が増えることは自然な流れですし、むしろ「お葬式だけをお別れの席とするべきではない」とさえ感じます。 参列者のためのタブー 参列者のためのタブーは先述のタブーとは少し性質が違い「穢れうけることを避ける」という目的で存在します。  大切な人とのお別れの席であるはずのお葬式に、なんとなく恐ろしいイメージがあったり、遺族が故人の死後に喪に服すとして閉鎖的な振る舞いを強いられるのもこの「穢れ」という要素が大きく関わっています。 一体穢れとは何であり、なぜ「穢れうけることを避ける」必要があるのでしょうか。 穢れとは何か 日本には古来より、穢れは伝染するもので、穢れを持つ人物は周りにいる人にまで異常をもたらす為に避けるべきである、という考え方があります。 「穢れ(ケガレ)」とは、忌まわしく思われる不浄な状態を表す概念で、死、病気、血、女性、出産、性行、排泄などによって生じます。 例えば、江戸時代には月経中の女性は穢れとされ、月経が終了するまで月経小屋と呼ばれる場所に隔離され、その間は家族と会うことさえ許されませんでした。 しかし、現代の日本でそんなことが行われることは、まずあり得ません。 現代では、「月経」が超自然的な穢れのような得体の知れないものではなく、生理の役割が医学的に説明可能な事象へと変化したからです。 お葬式も死にまつわる行事なので穢れであるとされます。 不幸が続くことを連想するような言葉は忌み言葉は厳禁であること、道連れを避ける為に棺に生きている人が映った写真を入れないことや、葬儀後には振り塩をして祓い(ハライ)を行うことなどに加えて、「小さな声を心がけなければいけない」「和やかに振る舞ってはいけない」など。 まるで恐ろしい怪物に目をつけられないようにと恐れるような振る舞いも、故人や遺族を含む「死そのもの」を穢れとして扱うことが由来となっています。 現代のお葬式に多くの穢れに関するタブーが存在し続けているのは、「死は穢れだという価値観が変化していないから」なのでしょうか? 「死」は女性の身体にしか起こらない月経以上に、誰にでも必然に起こることなのに、生前は普通に付き合うことができた人間が「故人」となった瞬間に恐れ避けなければいけない存在として扱うことは、本当にしなければならない必要なことなのでしょうか? それぞれに映る故人と、それぞれのお別れを 宗教儀式という形態をとっているお葬式では、なんとなく行われる慣習にも宗教的な意味合いのマナーやタブーが込められています。 宗教的な祈りが込められた動作を行うことで、死を受け入れていくというという意味合いもあるでしょう。 もちろん宗教に対する信仰心は、人それぞれ自由に持っていて構わないものです。 しかし強く信じているとは言えない伝統やルールを過剰に気にして「故人を規格化」してしまうあまり、確かに生きていた大切な人と納得がいくお別れができないというのは、本来のお葬式の意味から外れてしまうのではないでしょうか? お葬式の本質というのは、動作の強要により格式ばった儀式をこなすことではなく、参列者がそれぞれに映る故人を想い、それぞれのお別れを告げることにあります。 お葬式で行われる動作に込められた意味を知った上で、守らなくていいマナーや破ってもいいタブーを自分の中で見つめ直すことが、確かに故人を想っているその人にしかできないその人なりのお別れを告げることに繋がればと思います。
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2022年04月14日
連載:トイナオ死 #0「死を問い直す」 
連載:トイナオ死 #0「死を問い直す」 
かつて、死は日常的なものであった。葬式は村総出で行われ、 個人の死は家族を超えて共有 された。そうした過程で人は死を意識し、時には恐れることで自らの人生について考えていたとされる。 しかし、現代の日本において、死、とりわけ 葬式は分業化とアウトソーシングが進み、日常の光景から失われつつある 。病人や高齢者は病院や介護施設に隔離され、その道の専門家・プロフェッショナルに委託される。御多分に洩れず、死は近代化したのである。 こうした変化は、遺族の負担を減らし、公衆衛生を向上させるなどして多くの恩恵をもたらした一方で、人々は死を自らのものとして引き受けることから遠ざかってしまった。 さらに、凄まじい速度で進化するテクノロジーに人々は追いつけないことで、生命倫理など様々な場面で「問う」という行為は置き去りにされている。また、 「わかりやすさ」礼讃の時代 が到来し、死や生といった根源的な問いの難しさと向き合う機会はますます減少しつつある。  大きな消費的な時代の流れの中に我々は飲み込まれ、問うべき重要なことと向き合えていないのではないか——— そうした危機感から、人々が死をはじめとした根源的な問い(自らの人生の理想的なあり方や幸福観、死生観など)に向き合う機会を作ること、つまり人々が「生きること、死ぬということを問い直す」ための一助となることを目的として、本連載はスタートした。連載のタイトルである『トイナオ死』は、「死を問い直す」ことをテーマとしていることに由来する。 ここまで語ってきたように、死を問い直すことで死を日常に取り戻し、ゆるやかに生活へと溶け出させることが本連載の究極の目標である。  もう少し死についての話を続けさせてほしい。 村上春樹は代表作『ノルウェイの森(上)』(講談社、1987年)で次のように書いている。 > 死は生の対極としてではなくその一部として存在している。 自分には縁のないものとして死を遠ざけるのではなく、生の延長線上にあるものとして死を捉えること、向き合うこと。社会現象にもなったこの小説は、現代人に対して死と向き合うことの意味について力強いメッセージを突きつけたように思える。 しかし一方で、死と向き合うことは、もちろん、痛みを伴うものである。いたずらに死と向き合うことを強要することは、誰の幸せにも繋がらない無意味なことだ。人々の気持ちに寄り添いながら、共に考えるという姿勢を忘れてはならない。 だからこそ、本連載では「共に考える」ために、人との対話を重視している。 テキストを介したコミュニケーションは、どれだけ内密なものであったとしても、どこか乾いていて、〈私〉の言葉でないような感じがしないと思ったことはないだろうか。  「死」という人間にとって最も根源的な概念について語る時、我々はつっかえたり、あるいは言葉が出なかったりする。そうした「声にならない声」は、テキストにはあらわれないが、死、そしてその先にいる人と向き合う上で、なくてはならないものだ。  哲学者の鷲田清一はこうした〈場所〉について、以下のようなことを書いている。 > (哲学の場所とは)主体が他者とおなじ現在においてその他者とともに居合わせていて、その関係から一時的にもせよ離脱することなく、そこで思考し続けることを要求されるような、そういう場所のことではないだろうか。 > ——— 『聴くことの力』(ちくま学芸文庫、2015年)一部筆者により改変 哲学に限らず、死について語る場所は「むき出しの他者」と居合わせるものであるべきだろう。テキストでのコミュニケーションにはない共時的、共場的な空間は、対話によって初めて実現する。 そこで、『トイナオ死』では、死について関わる様々な人を訪ね、インタビューを行っていく。読者の方には、その記録を辿ることを通して問いと向き合ってみてほしい。また、これからの連載を通して、記事に対する批判や疑念などあればぜひ遠慮なく寄せてほしい。それもまた一つの対話なのだから。
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2022年04月11日
“不便さ”のデザインについて
“不便さ”のデザインについて
こんにちは、むじょう代表の前田です。 価値は不便な所に宿るのではないか、という話をします。 最近、メモリアルムービー制作のご依頼をいただきました。 葬儀のメモリアルムービーは、ご逝去から葬儀までの短時間で制作する必要があります。 そのため、既存のサービスは早く、良いものを作るパッケージになっています。画像データと、テロップを指定用紙に書き込み、制作会社に送る形が一般的です。最短で納品するために最適化されています。 この商品の価値は「納品されるDVDそのもの」です。もちろん消費者はそれを買っているので希望を満たしています。 弊社ではメモリアルムービーの制作に際して、スキャナを鞄に詰めてお客様のご自宅近くのファミレスまで伺い、写真1枚1枚をスキャンさせていただきます。 理由としては、写真1枚1枚をスキャンしながら思い出を語っていただく時間が価値になるからです。テロップを入れるために指定された書式の紙に写真の説明を書く「DVDを完成させるための作業」にしかなりません。 一方で、「これはいつの写真ですか?」「お母様の得意料理は何でしたか?」とお話を伺いながらスキャンする中で、思い出を整理していただくことができます。もちろん、テロップに使う情報は十分に語っていただけます。 このスキャンを終えた後、お客様はスッキリした表情で帰って行かれました。自分でスキャンしてデータとして共有し、さらにテロップも電子メールで共有できたら便利かもしれませんが、「話終わった後のスッキリ感」は得られないでしょう。 わざわざ写真を持って出かけ、初対面の人に亡くなった大切な人の話をするなど、不便極まりないサービスのようですが、これが良いという人は必ずいます。 うちの商品の価値は「DVDを制作する時間」です。これは購入する前には分からない類の価値です。やってみてはじめて分かります。 これは価値をシンプルに訴求していくマーケティングとは相性が悪く、口コミの相性がいいと考えています。「根掘り葉掘り聞かれていやだったわ」という感想が出れば、それに共感する次のお客さんは来ませんし、「色々話てスッキリしたわ」という感想が出れば、それに共感する(共感したい)お客さんがきます。 お客さんがフィルタリングされていくので結果的に価値を感じてくれるお客様に届けることができます。どこに引力を効かせ、どこにフィルターを効かせるのか。そのフィルターの設計に”不便さ”が寄与します。 弊社は今までBtoCの葬想式と、BtoBのクリエイティブ制作事業しかやってきませんでしたが、これからBtoBtoCのメモリアルムービー制作事業を開始するにあたり、こんなことを考えてみました。 弊社のムービーを置きたいとご検討くださる葬儀屋さんがいらっしゃいましたら、是非相談させてください。
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2022年02月21日
株式会社むじょう2021年の活動を振り返る
株式会社むじょう2021年の活動を振り返る
2021年も今日で最後ですね。弊社では、創業当時から掲げている「変化にもっと優しく」という理念のもと、死にまつわる事業や企画を創ってきました。年末という節目に2021年の株式会社むじょうの取り組みを振り返ります。 ※「変化にもっと優しく」という理念に込めた願いは別の記事にまとめています。 記事 葬想式 まずは、創業前から開発していた距離と時間を越えて故人を偲ぶオンライン追悼サービス葬想式について。 故人様と過ごしていた日常から、見守ってもらう日常への変化に際して、血縁の有無や物理的制約によってお別れを諦めないための機会を目指してきました。 お葬式の「思い出コーナー」をスマホ上に再現するイメージというとわかりやすいかと思います。本来の思い出コーナーはご遺族がお写真や思い出の品を用意し、参列者が観る形でしたが、葬想式では参列者も写真を掲示し、それぞれの思い出が寄せられる、全員参加型の思い出コーナーです。 まだまだ利用件数は少ないですが、今年は1回の葬想式で平均84名の参加者を集め、お写真は平均89枚、メッセージは平均78件と、通常のお葬式では創り出せない体験をお届けできました。また、国境を越えた葬想式のご相談もいただくなど、インターネットならではの価値を発揮できる機会も増えてきました。 リリース初期(2020年7月)はスライドショー形式の画面でしたが 2021年9月にリニューアルを行い、写真を一覧でみられる仕様に変更しました。 少しずつ体験が磨かれてきたのも、利用者の皆様に育てていただいたお陰様です。ありがとうございます。 また、メディアにも取り上げていただき、私達の力ではお届けできなかった方にお届けすることができています。  葬想式は「お別れを諦めない」というコンセプトのもと、金銭的な理由でご利用を諦めないよう、無料で提供しています。現在、開式時間を72時間に制限しており、集まった写真やメッセージも閉式すると閲覧できなくなってしまいます。お手元に残したい場合、アルバム(葬想録)をご購入いただきます。 折角デジタルで集めたのに、わざわざアナログな紙のアルバムにするの?という声をよく耳にしますが、ここにも葬想式のこだわりがあります。この葬想録についてはこちらの記事をご覧ください。 故人の写真をアルバムに?故人のご友人が持つ写真を集めて作る“葬想録”について まだまだ必要としている方に届くサービスにはなれていません。引き続き、体験価値を磨き1人でも多くの方にお届けできるよう頑張ります。 死んだ父の日展 次に、今年6月に実施した「死んだ父の日展」という展示イベントについて。 お父様を亡くした方にとって、父の日は過ごし辛いになることもしばしです。そこで、天国のお父様宛に手紙を綴り、行き場のない想いを発散する場をインターネット上に作りました。 手紙を瓶に入れて海に投げ込む「ボトルメッセージ」をインターネットという海に置き換えるイメージでデザインしました。 他の参加者の手紙を読み、近い境遇の方の気持ちに触れることもできます。父との死別という人生における変化には、大きな感情の揺らぎが伴います。その感情をそのままに発散できる場を目指しました。 正直、悲しくない ずっと恨んでいた 亡くなって安心した このような感情も許容される、「綺麗事」では済まない想いもたくさん寄せられました。 この企画は、2021年5月9日の母の日にヒアリングさせていただいた方のお話から生まれました。その方はお母様と死別され、「世の中の母の日感がしんどい」と話してくださいました。それから、約1ヶ月後の父の日に向けて、企画・デザイン・開発を行ったという背景があります。 親との死別は誰もが経験する避けられない出来事だからこそ、両親がご存命の方への問いかけとしての意義も持ちます。誰かにとって幸せな日でも、別の誰かにとっては過ごし辛い日かもしれない。自分とは違う境遇の人の感情に思いを馳せることで心のリズムに変化を生み、日常の尊さを再認識するような機会になることを目指し、今後も定期的な開催を目指します。2022年は「死んだ母の日展」も開催できるよう、準備して参ります。 棺桶写真館 最後に、「棺桶写真館」について。棺桶写真館は、遺書を書き、本物の棺桶に入って自身の死に思いを馳せる体験型の企画です。 生きやすい時代になったからこそ、生きるリアリティを失いかけているのではないか、という問いから出発しています。「野垂れ死ぬ」という言葉がある通り、かつては人の死が日常にありました。その状態から脱しようと経済成長を目指し、今では野垂れ死ぬ人がほとんどいない社会を創り上げました。その過程で、あらゆる自然を排除し、分断してきました。 コンクリートで固められた地面。空調の効いた屋内。これらは自然をコントロールして得られた「効率」や「都合のいい状態」です。 生老病死という内なる自然も然りです。子供は保育園、生産世代は会社、老人は介護施設とできるだけ合理的に分けることで効率を求めてきました。 このように、人間は都合よく自然をコントロールできるようになってきました。しかし、コントロールできない自然が残されています。それが死です。 コントロールできず、得体の知れない事象だからこそ、怖がったり、忌み嫌う対象になるわけですが、「自分自身の死」に関してはうまく乗りこなし、生に活用できるという仮説を持っています。 締め切りがあるから宿題ができるのと同じように、死を人生の締め切りと捉えた時に、「締め切り効果」が生まれ、今という時間を生き切れるのではないか... 死が今に比べて身近だった時代は、他者の死と出会う中で「自分もいつかは死ぬ」ということを想像しやすかったはずです。しかし、今は人はいつか死ぬということすらわかりづらい世の中になっています。 そこであえて、今、死ぬ気はなくても遺書を書き、肉体の最終地点である棺桶に入って今を捉え直す機会を作りました。それが棺桶写真館です。2021年は7月と10月の2回開催しました。 2022年も継続して、死との出会いの機会を作っていきます。本企画は不定期開催となっています。こちらの公式LINEにて開催情報を告知致しますので、参加をご希望の方は友達追加の上、お待ちください。 最後に 2021年も本当にお世話になりました。諸行無常、株式会社むじょうという名に恥じぬよう、常に変わり続け、世の中に新しい価値を産み出す会社を目指して2022年も精進します。 今後とも、株式会社むじょうをよろしくお願いいたします。 2021年12月31日 株式会社むじょう 代表取締役 前田陽汰
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2021年12月31日