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子供に死を教えるには?死の説明・向き合い方についての思索
子供に死を教えるには?死の説明・向き合い方についての思索
幼い子供にとっての死とは、一体どういう事象なのでしょう? おもちゃが壊れてしまうことやアリを踏み潰してしまうことと同じでしょうか。 死は、いつも一緒に遊んでいるペットや、優しい祖父母、大好きな親や、友達、そして自分にも、必ず訪れるものです。 生まれてはじめて身近な人の死に直面した子供は、その人死をどうやって理解し、受け入れていけばいいのでしょうか。 死は、宗教観やその人の死生観によって違いのある、大人にとっても難しい概念です。それを幼い子供に理解させることは難しいでしょう。 ですが、いつか訪れる大切な人の死でお子さんの心が壊れすぎないように。 大切な人の死を忘れることなく自身の日常を過ごしていけるように。 死に関わる言葉で誰かを傷つけてしまわないように。 幼少期に何らかの形で死に触れることは、お子さんの人生観を育む大切な経験となるはずです。 お子さんの大切な人に死が訪れた時は お子さんにとって大切な人が亡くなった時、お子さんの年齢や性格によっては、お子さんが遺族であったとしても通夜やお葬式に参列させることは必ずしも最善であるとは限りません。 死の意味もわからないのに、大人が大勢悲しんでいるお葬式の場に連れていくことは、お子さんのお別れの気持ちより恐怖が先立ってしまった結果、ただお子さんに怖い思いをさせてしまうただけに終わるってしまう可能性も十分にあります。 もしご両親の意向でお子さんを参列させたい場合でも、お子さんに参列の意思があるのか確認することは大切です。もし渋るようでしたら、無理に参列させるのは控えましょう。 お子さんが参列を希望した場合でも、お葬式がどんな場所であるか、どうしてみんなが悲しんでいるかや、怖い場所ではなくお別れの場所だということ、悲しくなったら泣いてもいいということなど、事前に説明してあげるとよいでしょう。 お子さんによっては大人が悲しんでいるのを見て、不安から泣き出してしまったり、注意を引いて笑わせようとしたりする子もいます。もしお子さんが参列にそぐわない行動をとってしまっても、無理に泣き止ませたり静かにさせたりせずに、一度退席しお子さんが安心するまで待ってあげてください。  お葬式参列後しばらくしてからでも、お子さんが急に落ち込んでしまったり、夜眠るのを怖がったり、お肉などの食事を摂らなくなったりすることはよくあります。親御さんでしっかりケアしてあげるようにし、場合によっては専門家に相談してもいいですね。 死を教えるのに役立つ絵本 死は、未来のある子供には、まったく関係ないように思えます。 しかし、現在においても妊娠初期の流産確率は8~15%です。今生きている人はみんな、産まれる前にその確率を踏まなかっただけにすぎません。これから大きくなるお子さんも私たちも、人生最初の死線をくぐり抜け、生きているのです。 そうして産まれたお子さんの誕生を祝福する気持ちには死を回避したことへの安堵も含まれているのではないでしょうか。 既にくぐり抜けた死の可能性をきっかけに、お子さんと死について話してみてはいかがでしょうか。 「命あるものにはいつか死が訪れること」「死はとても悲しいこと」「誰かの命に死が訪れても、他の命は続いていくこと」など、大人にとっては当たり前のことを子供にもわかる言葉で伝えてあげることが、お子さんが自分のことをかけがえのない存在だと知るきっかけになるといいですね。 その他、親御さんが大切に想っていた故人とのあたたかい思い出や、親御さんが故人の死をどうやって受け入れていったかなどを聞かせてあげたり、死をテーマにした絵本を読み聞かせてあげたりするのも良いでしょう。 悲しい死をまだ幼い子供に教えることに抵抗がある方もいらっしゃるかもしれませんが、死を悲しむのは、自分以外の人を大切に想うことの表れであり、お子さんが自分以外の人を想う気持ちも大切にできる大人に育つために必要な知識のひとつです。 どんな年齢のお子さんにもおすすめの絵本として、『うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん』があります。うさこちゃんがだいすきなおばあちゃんを亡くし、悲しみの中でおばあちゃんに感謝とお別れを述べ、お葬式でのお別れの後も毎日おばあちゃんのお墓に花を供えることで、うさこちゃんの日常におばあちゃんの死を受け入れていくというストーリーの絵本です。 「大切な人の死」「悲しみ」「誰かの死の後も生きていくこと」を優しく描いている内容なので、大切な人の死に直面してしまい、落ち込んでいるお子さんにもおすすめの一冊です。 まとめ  みなさんは子供時代に大切な人を亡くしたことはありますか?その時のことを覚えているでしょうか。その人との思い出は覚えていますか。  もしなにも覚えていなくても、その人のことやその人の思い出は、人伝で聞いたり写真を見たりして、「もう覚えていないけど大切な人」として胸の内にいらっしゃる方も多いのではないでしょうか。  お子さんがいつか大人になった時、「覚えていようが覚えていまいが、その人のことをどれだけ大切に想うことができるか」を考えた時に、子供の頃から死と正しい距離感で向き合うことは重要です。  寿命通りにいくと、親は子供より早く死にます。お子さんが死と正しい距離感で向き合う為のサポートをすることは、子供より早く死ぬことしかできない親の勤めであると言えるのではないでしょうか。  大切なお子さんが大人になっても、大切な人の死を悲しみ受け入れられるように、親子にとっての「死との正しい距離感」を測ってみる機会があってもいいと思いますよ。
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2022年05月12日
死んだ母の日展で集まったメッセージを紹介
死んだ母の日展で集まったメッセージを紹介
母の日に天国へのお母さんへ想いを綴る「死んだ母の日展」。今回は集まったメッセージを幾つか紹介させていただきます。 死んだ母の日展とは 死んだ母の日展はお母さんを亡くした人が、天国のお母さんへ手紙を綴れるオンライン展示会です。特設サイトから手紙を綴り、匿名で展示します。死んだ母の日展は母への感謝だけ伝える場ではありません。近況報告、懐かしい話、愚痴、恨みなど、伝えたいことをそのままに発散できる場です。 https://mmmm.sososhiki.jp/ 投稿紹介 1週間前に亡くなった母への手紙 > 「毎日夜勤してもずっと起きててくれて、ご飯作ってくれてありがとう」 > 「ちゃんと親孝行も出来ていないのに本当にごめんね」 > 「父さんも頑張ってくれているけど、一緒にいることが多くてしんどくなってきてしまった」 感謝だけはない、お母様へ伝えたい感情がそのままに綴られています。 死んだ母の日展 | 死別当時23歳の私から享年51歳の母へ 60年前の母の姿を兄弟と振り返る > 「当時では晩婚だった母は三人の子供を残して、私の小学校の入学式の日に旅立ちました。」 > 「弟の誕生日がお葬式当日と、60年経った今も忘れられません」 こんな文章から始まるお手紙。誰かの心に生きるってどんなことなんだろうと考えさせられるお手紙でした。 死んだ母の日展 | 死別当時6歳の私から享年39歳の母へ ママと今は絶対に会いたくありません > 「ちゃんと愛情を注いでくれるお母さんと幼い頃死別してしまった人は、お母さんが恋しい、会いたいと思うのが当たり前であるかのように思われていますが、 私はママを恋しいと思ったことは、ありません 」 > 「自分への劣等感で今も苦しいです。でも、 ママと今は絶対に会いたくありません 」 手紙の途中「どうしてそんなこというの」と、驚かれる方もいるかもしれません。しかし、最後まで読むとその言葉に込められた想いが伝わってきます。 死んだ母の日展 | 死別当時12歳の私から享年48歳の母へ 15歳の私が伝えたい溢れ出る母への想い > 「高校最後の部活の公演も、大学の合格発表も、高校の卒業式や大学の入学式も、ママと同じ大学の学生証も、成績表も、ママにみせたいものがたくさんあったよ。ディズニーやUSJだって、旅行だって、海外だって、いっしょに行きたかったよ。ううん、近くのコンビニやスーパーでもいいから、親子隣同士で歩きたい、今でもそんな願いが出てきてしまいます」 > 「最近、いつかこの世で一人になるんだと考えてしまい、どうしようもない不安と闘っています。ばばがママと同じ病気になっちゃったよ」 見せたかった自分の晴れ舞台、親子で歩く友達を見た時の寂しさ。そして、家族の健康について。 お母さんにだからこそ、伝えたいことがたくさんあるんだなと感じました。 死んだ母の日展 | 死別当時15歳の私から享年42歳の母へ 最後に 死んだ母の日展に集まったお手紙をいくつか紹介させていただきました。 母の日は、"感謝を伝える日"だけではなくて、自分の中で言葉を綴ってみたり想いを巡らせる日でも良いのかもしれない。そんな風に感じました。 皆様にとって、それぞれの母の日をお過ごしいただけることを願っています。 死んだ母の日展は、2022年5月8日 23:59まで応募を受け付けております。 死んだ母の日展: https://mmmm.sososhiki.jp/ 死んだ母の日展 投稿ページ: https://mmmm.sososhiki.jp/write
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2022年04月29日
【お葬式のタブーを考える】してはいけないことは、なぜしてはいけないのか
【お葬式のタブーを考える】してはいけないことは、なぜしてはいけないのか
時代と共に文化が変わり、多様な選択肢が生まれた現代においても、悲しみの席であるお葬式は祝い事を慶ぶ席である結婚式などと比べて、変化が受け入れられにくい儀式です。 死者の弔い方には多くのルールやマナーがあること同様、タブーも存在しますが、このタブーは何のために、そして誰のために存在し、なぜ忌避されるのでしょうか? タブーの恩義は誰が受けるのか 死に関するタブーは、大きく故人のため遺族のため参列者自身のための三つに分類できます。 故人のためのタブー 故人のためのタブーには、死後の世界で故人が不便をしないようにとの配慮から生まれた、宗教的な意味合いが強いものが多いです。極楽浄土への道しるべである線香を通夜の晩は絶やしてはいけないという「寝ずの番」や、あの世とこの世はあらゆるものが逆になっているので故人があの世で不便をしないようにとのことから死装束などを右前ではなく左前に、横結びではなく縦結びにしてこの世とは逆のことをする「逆さごと」などが、宗教的な意味合いのある故人のために存在するタブーだと言えるでしょう。 故人を大切に想う人のためのタブー 遺族のためのタブーは「自分と同じく故人を大切に想う人の、悲しみを阻害しかねない行為」がタブーとされます。その人の死を待ち望み準備していたと思われないように「香典には新札を使わないこと」や、故人の死の瞬間の悲しみをむやみに思い出させることのないよう「直接遺族に詳しい死因は尋ねること」が故人を大切に想う人のためのタブーに該当します。大切な人を亡くして悲しむ遺族を不快にさせないようにという気遣いによって生じるタブーなので、厳守するべきもののように思えますよね。 ところが、「形式化されすぎた、時代にそぐわない振る舞いをしなければいけないこと」は、遺族にも参列者にも「自分らしい悲しみよりも、格式を優先してしまう結果」に繋がってしまっている現実も、やはり存在します。 現在、「家族葬」が多くなり、遺族ではない限り故人とのお別れの場を持つ機会が少なくなりつつあるのは、「お葬式でホストをこなすことよりも、家族の悲しみを優先したお別れの席にしたい」という、尊重されるべき遺族の意向があるからです。 それに伴い、遺族をホストとしないお葬式以外の「お別れの席の選択肢」が増えることは自然な流れですし、むしろ「お葬式だけをお別れの席とするべきではない」とさえ感じます。 参列者のためのタブー 参列者のためのタブーは先述のタブーとは少し性質が違い「穢れうけることを避ける」という目的で存在します。  大切な人とのお別れの席であるはずのお葬式に、なんとなく恐ろしいイメージがあったり、遺族が故人の死後に喪に服すとして閉鎖的な振る舞いを強いられるのもこの「穢れ」という要素が大きく関わっています。 一体穢れとは何であり、なぜ「穢れうけることを避ける」必要があるのでしょうか。 穢れとは何か 日本には古来より、穢れは伝染するもので、穢れを持つ人物は周りにいる人にまで異常をもたらす為に避けるべきである、という考え方があります。 「穢れ(ケガレ)」とは、忌まわしく思われる不浄な状態を表す概念で、死、病気、血、女性、出産、性行、排泄などによって生じます。 例えば、江戸時代には月経中の女性は穢れとされ、月経が終了するまで月経小屋と呼ばれる場所に隔離され、その間は家族と会うことさえ許されませんでした。 しかし、現代の日本でそんなことが行われることは、まずあり得ません。現代では、「月経」が超自然的な穢れのような得体の知れないものではなく、生理の役割が医学的に説明可能な事象へと変化したからです。 お葬式も死にまつわる行事なので穢れであるとされます。 不幸が続くことを連想するような言葉は忌み言葉は厳禁であること、道連れを避ける為に棺に生きている人が映った写真を入れないことや、葬儀後には振り塩をして祓い(ハライ)を行うことなどに加えて、「小さな声を心がけなければいけない」「和やかに振る舞ってはいけない」など、まるで恐ろしい怪物に目をつけられないようにと恐れるような振る舞いも、故人や遺族を含む「死そのもの」を穢れとして扱うことが由来となっています。 現代のお葬式に多くの穢れに関するタブーが存在し続けているのは、「死は穢れだという価値観が変化していないから」なのでしょうか? 「死」は女性の身体にしか起こらない月経以上に、誰にでも必然に起こることなのに、生前は普通に付き合うことができた人間が「故人」となった瞬間に恐れ避けなければいけない存在として扱うことは、本当にしなければならない必要なことなのでしょうか? それぞれに映る故人と、それぞれのお別れを 宗教儀式という形態をとっているお葬式では、なんとなく行われる慣習にも宗教的な意味合いのマナーやタブーが込められています。宗教的な祈りが込められた動作を行うことで、死を受け入れていくというという意味合いもあるでしょう。 もちろん宗教に対する信仰心は、人それぞれ自由に持っていて構わないものです。しかし強く信じているとは言えない伝統やルールを過剰に気にして「故人を規格化」してしまうあまり、確かに生きていた大切な人と納得がいくお別れができないというのは、本来のお葬式の意味から外れてしまうのではないでしょうか? お葬式の本質というのは、動作の強要により格式ばった儀式をこなすことではなく、参列者がそれぞれに映る故人を想い、それぞれのお別れを告げることにあります。 お葬式で行われる動作に込められた意味を知った上で、守らなくていいマナーや破ってもいいタブーを自分の中で見つめ直すことが、確かに故人を想っているその人にしかできないその人なりのお別れを告げることに繋がればと思います。
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2022年04月14日
連載:トイナオ死 #0「死を問い直す」 
連載:トイナオ死 #0「死を問い直す」 
かつて、死は日常的なものであった。葬式は村総出で行われ、個人の死は家族を超えて共有された。そうした過程で人は死を意識し、時には恐れることで自らの人生について考えていたとされる。 しかし、現代の日本において、死、とりわけ葬式は分業化とアウトソーシングが進み、日常の光景から失われつつある。病人や高齢者は病院や介護施設に隔離され、その道の専門家・プロフェッショナルに委託される。御多分に洩れず、死は近代化したのである。 こうした変化は、遺族の負担を減らし、公衆衛生を向上させるなどして多くの恩恵をもたらした一方で、人々は死を自らのものとして引き受けることから遠ざかってしまった。 さらに、凄まじい速度で進化するテクノロジーに人々は追いつけないことで、生命倫理など様々な場面で「問う」という行為は置き去りにされている。また、「わかりやすさ」礼讃の時代が到来し、死や生といった根源的な問いの難しさと向き合う機会はますます減少しつつある。  大きな消費的な時代の流れの中に我々は飲み込まれ、問うべき重要なことと向き合えていないのではないか——— そうした危機感から、人々が死をはじめとした根源的な問い(自らの人生の理想的なあり方や幸福観、死生観など)に向き合う機会を作ること、つまり人々が「生きること、死ぬということを問い直す」ための一助となることを目的として、本連載はスタートした。連載のタイトルである『トイナオ死』は、「死を問い直す」ことをテーマとしていることに由来する。 ここまで語ってきたように、死を問い直すことで死を日常に取り戻し、ゆるやかに生活へと溶け出させることが本連載の究極の目標である。  もう少し死についての話を続けさせてほしい。 村上春樹は代表作『ノルウェイの森(上)』(講談社、1987年)で次のように書いている。 > 死は生の対極としてではなくその一部として存在している。 自分には縁のないものとして死を遠ざけるのではなく、生の延長線上にあるものとして死を捉えること、向き合うこと。社会現象にもなったこの小説は、現代人に対して死と向き合うことの意味について力強いメッセージを突きつけたように思える。 しかし一方で、死と向き合うことは、もちろん、痛みを伴うものである。いたずらに死と向き合うことを強要することは、誰の幸せにも繋がらない無意味なことだ。人々の気持ちに寄り添いながら、共に考えるという姿勢を忘れてはならない。 だからこそ、本連載では「共に考える」ために、人との対話を重視している。 テキストを介したコミュニケーションは、どれだけ内密なものであったとしても、どこか乾いていて、〈私〉の言葉でないような感じがしないと思ったことはないだろうか。  「死」という人間にとって最も根源的な概念について語る時、我々はつっかえたり、あるいは言葉が出なかったりする。そうした「声にならない声」は、テキストにはあらわれないが、死、そしてその先にいる人と向き合う上で、なくてはならないものだ。  哲学者の鷲田清一はこうした〈場所〉について、以下のようなことを書いている。 > (哲学の場所とは)主体が他者とおなじ現在においてその他者とともに居合わせていて、その関係から一時的にもせよ離脱することなく、そこで思考し続けることを要求されるような、そういう場所のことではないだろうか。 > ——— 『聴くことの力』(ちくま学芸文庫、2015年)一部筆者により改変 哲学に限らず、死について語る場所は「むき出しの他者」と居合わせるものであるべきだろう。テキストでのコミュニケーションにはない共時的、共場的な空間は、対話によって初めて実現する。 そこで、『トイナオ死』では、死について関わる様々な人を訪ね、インタビューを行っていく。読者の方には、その記録を辿ることを通して問いと向き合ってみてほしい。また、これからの連載を通して、記事に対する批判や疑念などあればぜひ遠慮なく寄せてほしい。それもまた一つの対話なのだから。
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2022年04月11日
“不便さ”のデザインについて
“不便さ”のデザインについて
こんにちは、むじょう代表の前田です。 価値は不便な所に宿るのではないか、という話をします。 最近、メモリアルムービー制作のご依頼をいただきました。 葬儀のメモリアルムービーは、ご逝去から葬儀までの短時間で制作する必要があります。 そのため、既存のサービスは早く、良いものを作るパッケージになっています。画像データと、テロップを指定用紙に書き込み、制作会社に送る形が一般的です。最短で納品するために最適化されています。 この商品の価値は「納品されるDVDそのもの」です。もちろん消費者はそれを買っているので希望を満たしています。 弊社ではメモリアルムービーの制作に際して、スキャナを鞄に詰めてお客様のご自宅近くのファミレスまで伺い、写真1枚1枚をスキャンさせていただきます。 理由としては、写真1枚1枚をスキャンしながら思い出を語っていただく時間が価値になるからです。テロップを入れるために指定された書式の紙に写真の説明を書く「DVDを完成させるための作業」にしかなりません。 一方で、「これはいつの写真ですか?」「お母様の得意料理は何でしたか?」とお話を伺いながらスキャンする中で、思い出を整理していただくことができます。もちろん、テロップに使う情報は十分に語っていただけます。 このスキャンを終えた後、お客様はスッキリした表情で帰って行かれました。自分でスキャンしてデータとして共有し、さらにテロップも電子メールで共有できたら便利かもしれませんが、「話終わった後のスッキリ感」は得られないでしょう。 わざわざ写真を持って出かけ、初対面の人に亡くなった大切な人の話をするなど、不便極まりないサービスのようですが、これが良いという人は必ずいます。 うちの商品の価値は「DVDを制作する時間」です。これは購入する前には分からない類の価値です。やってみてはじめて分かります。 これは価値をシンプルに訴求していくマーケティングとは相性が悪く、口コミの相性がいいと考えています。「根掘り葉掘り聞かれていやだったわ」という感想が出れば、それに共感する次のお客さんは来ませんし、「色々話てスッキリしたわ」という感想が出れば、それに共感する(共感したい)お客さんがきます。 お客さんがフィルタリングされていくので結果的に価値を感じてくれるお客様に届けることができます。どこに引力を効かせ、どこにフィルターを効かせるのか。そのフィルターの設計に”不便さ”が寄与します。 弊社は今までBtoCの葬想式と、BtoBのクリエイティブ制作事業しかやってきませんでしたが、これからBtoBtoCのメモリアルムービー制作事業を開始するにあたり、こんなことを考えてみました。 弊社のムービーを置きたいとご検討くださる葬儀屋さんがいらっしゃいましたら、是非相談させてください。
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2022年02月21日
株式会社むじょう2021年の活動を振り返る
株式会社むじょう2021年の活動を振り返る
2021年も今日で最後ですね。 弊社では、創業当時から掲げている「変化にもっと優しく」という理念のもと、死にまつわる事業や企画を創ってきました。年末という節目に2021年の株式会社むじょうの取り組みを振り返ります。 ※「変化にもっと優しく」という理念に込めた願いは別の記事にまとめていますのでこちらをご参照ください。 葬想式 まずは、創業前から開発していた距離と時間を越えて故人を偲ぶオンライン追悼サービス葬想式について。 故人様と過ごしていた日常から、見守ってもらう日常への変化に際して、血縁の有無や物理的制約によってお別れを諦めないための機会を目指してきました。 お葬式の「思い出コーナー」をスマホ上に再現するイメージというとわかりやすいかと思います。本来の思い出コーナーはご遺族がお写真や思い出の品を用意し、参列者が観る形でしたが、葬想式では参列者も写真を掲示し、それぞれの思い出が寄せられる、全員参加型の思い出コーナーです。 まだまだ利用件数は少ないですが、今年は1回の葬想式で平均84名の参加者を集め、お写真は平均89枚、メッセージは平均78件と、通常のお葬式では創り出せない体験をお届けできました。また、国境を越えた葬想式のご相談もいただくなど、インターネットならではの価値を発揮できる機会も増えてきました。 リリース初期(2020年7月)はスライドショー形式の画面でしたが 2021年9月にリニューアルを行い、写真を一覧でみられる仕様に変更しました。 少しずつ体験が磨かれてきたのも、利用者の皆様に育てていただいたお陰様です。ありがとうございます。 また、メディアにも取り上げていただき、私達の力ではお届けできなかった方にお届けすることができています。  葬想式は「お別れを諦めない」というコンセプトのもと、金銭的な理由でご利用を諦めないよう、無料で提供しています。現在、開式時間を72時間に制限しており、集まった写真やメッセージも閉式すると閲覧できなくなってしまいます。お手元に残したい場合、アルバム(葬想録)をご購入いただきます。 折角デジタルで集めたのに、わざわざアナログな紙のアルバムにするの?という声をよく耳にしますが、ここにも葬想式のこだわりがあります。この葬想録についてはこちらの記事をご覧ください。 故人の写真をアルバムに?故人のご友人が持つ写真を集めて作る“葬想録”について まだまだ必要としている方に届くサービスにはなれていません。引き続き、体験価値を磨き1人でも多くの方にお届けできるよう頑張ります。 死んだ父の日展 次に、今年6月に実施した「死んだ父の日展」という展示イベントについて。 お父様を亡くした方にとって、父の日は過ごし辛いになることもしばしです。そこで、天国のお父様宛に手紙を綴り、行き場のない想いを発散する場をインターネット上に作りました。 手紙を瓶に入れて海に投げ込む「ボトルメッセージ」をインターネットという海に置き換えるイメージでデザインしました。 他の参加者の手紙を読み、近い境遇の方の気持ちに触れることもできます。父との死別という人生における変化には、大きな感情の揺らぎが伴います。その感情をそのままに発散できる場を目指しました。 「正直、悲しくない」「ずっと恨んでいた」「亡くなって安心した」 このような感情も許容される、「綺麗事」では済まない想いもたくさん寄せられました。 この企画は、2021年5月9日の母の日にヒアリングさせていただいた方のお話から生まれました。その方はお母様と死別され、「世の中の母の日感がしんどい」と話してくださいました。それから、約1ヶ月後の父の日に向けて、企画・デザイン・開発を行ったという背景があります。 親との死別は誰もが経験する避けられない出来事だからこそ、両親がご存命の方への問いかけとしての意義も持ちます。誰かにとって幸せな日でも、別の誰かにとっては過ごし辛い日かもしれない。自分とは違う境遇の人の感情に思いを馳せることで心のリズムに変化を生み、日常の尊さを再認識するような機会になることを目指し、今後も定期的な開催を目指します。2022年は「死んだ母の日展」も開催できるよう、準備して参ります。 棺桶写真館 最後に、「棺桶写真館」について。棺桶写真館は、遺書を書き、本物の棺桶に入って自身の死に思いを馳せる体験型の企画です。 生きやすい時代になったからこそ、生きるリアリティを失いかけているのではないか、という問いから出発しています。「野垂れ死ぬ」という言葉がある通り、かつては人の死が日常にありました。その状態から脱しようと経済成長を目指し、今では野垂れ死ぬ人がほとんどいない社会を創り上げました。その過程で、あらゆる自然を排除し、分断してきました。 コンクリートで固められた地面。空調の効いた屋内。これらは自然をコントロールして得られた「効率」や「都合のいい状態」です。 生老病死という内なる自然も然りです。子供は保育園、生産世代は会社、老人は介護施設とできるだけ合理的に分けることで効率を求めてきました。 このように、人間は都合よく自然をコントロールできるようになってきました。しかし、コントロールできない自然が残されています。それが死です。 コントロールできず、得体の知れない事象だからこそ、怖がったり、忌み嫌う対象になるわけですが、「自分自身の死」に関してはうまく乗りこなし、生に活用できるという仮説を持っています。 締め切りがあるから宿題ができるのと同じように、死を人生の締め切りと捉えた時に、「締め切り効果」が生まれ、今という時間を生き切れるのではないか... 死が今に比べて身近だった時代は、他者の死と出会う中で「自分もいつかは死ぬ」ということを想像しやすかったはずです。しかし、今は人はいつか死ぬということすらわかりづらい世の中になっています。 そこであえて、今、死ぬ気はなくても遺書を書き、肉体の最終地点である棺桶に入って今を捉え直す機会を作りました。 それが棺桶写真館です。2021年は7月と10月の2回開催しました。 2022年も継続して、死との出会いの機会を作っていきます。本企画は不定期開催となっています。こちらの公式LINEにて開催情報を告知致しますので、参加をご希望の方は友達追加の上、お待ちください。 最後に 2021年も本当にお世話になりました。 諸行無常、株式会社むじょうという名に恥じぬよう、常に変わり続け、世の中に新しい価値を産み落とす会社を目指して2022年も精進します。 今後とも、株式会社むじょうをよろしくお願いいたします。 2021年12月31日 株式会社むじょう 代表取締役 前田陽汰
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2021年12月31日
故人の写真をアルバムに?故人のご友人が持つ写真を集めて作る“葬想録”について
故人の写真をアルバムに?故人のご友人が持つ写真を集めて作る“葬想録”について
家族の前の自分と、友人の前の自分と、職場での自分。それぞれ少し違う顔を持っているかと思います。これは偽りの自分ではなく、どれも本当の自分です。時と場合、相手との関係性によって人の表情は変わります。 大切な人を亡くされたご遺族へ、少し落ち着いてからご覧いただきたいご提案です。 故人様のご友人のスマホやカメラで撮られた故人様のお写真はご覧になったことがないものも多いかと思います。ご自身の知らない故人様の一面を知る機会として。また、ご葬儀に参列できずお別れの機会がなかった故人様のご友人の気持ちの区切りとして。皆さんで故人様の思い出のお写真を共有し合い、それを1冊のアルバムにまとめてみてはいかがでしょうか? 今日は、そのアルバムを作るために写真やメッセージを集める無料サービスのご紹介と、アルバム冊子完成までの流れについてご紹介します。 故人様の写真を集める「葬想式」を使う3つのステップ ご利用登録 葬想式は無料で使えるウェブサービスで、アプリをインストールする必要もありません。 まず、Google、Yahoo!などの検索エンジンで「葬想式」と検索します。葬想式のページをクリックすると、写真右の画面に遷移します。画面右上の「登録・ログイン」というボタンをクリックしてください。 次に、開式に必要な情報をご入力いただきます。 写真左の基本情報を入力し、利用規約に同意して「登録」ボタンをクリックします。 すると、写真右の画面に遷移します。 基本情報の入力の際、開式日時をご指定いただきます。葬想式の開式時間は72時間で、登録時に指定した日時から72時間開式されます。指定した開式日時まで、ゆっくりとご準備いただけます。 会場準備・招待 開式者様は写真左の赤丸部分の「事前設定ページ」をクリックすると、写真右の画面に遷移します。開式日時まで、参列者様は葬想式にアクセスすることができませんが、開式者様は準備のために葬想式にアクセスできます。 上の写真右の画面では、TOPに表示される故人様のお写真の追加や、故人様の紹介文をご入力いただくことができます。 次に、画面下の3つのボタンについてご説明します。 まず、左の「写真」ボタンについて。写真ボタンをクリックすると、写真右の画面が表示されます。スマホのカメラロールにある写真をアップする場合は、一番上の「写真ライブラリ」をクリックしてください。 スマホのカメラロールの中から、写真を選択してアップロードすることができます。 次は中央の「メッセージ」ボタンについて。メッセージボタンをクリックすると、下の写真右の画面が表示されます。ここにテキストを打ち込み、送信すると匿名で葬想式上にアップされ、他の参列者様にもご覧いただけるようになります。 最後に右の「招待」ボタンについて。招待ボタンをクリックすると、下の写真右の画面が表示されます。招待メッセージのテンプレートのコピーや各SNSでの招待が可能です。テンプレートは自由に編集してお使いいただけます。 招待時に参列用のURLをお送りしますが、開式日時になるまで葬想式の会場にアクセスできないようになっています。開式前に招待を送っても問題ありませんので事前に招待を送って準備しましょう。 開式 以上の準備を済ませ、開式日時になると下の写真のように葬想式が開式されます。 参列者からのメッセージや写真が集まります。万一、不適切な内容の投稿があった場合も、開式者様の方で非表示設定にすることが可能です。写真・メッセージの投稿を非表示にした場合、投稿者以外の参列者には表示されない設定になり、投稿者本人には引き続き表示されるため非表示設定にされた事がわからない仕様になっています。 葬想式に集まる皆様がおもいおもいのお時間を過ごせるよう、常にお電話・メールでのお問い合わせに対応しております。 ご友人がお持ちの写真を集めてつくる、人生の断片集「葬想録」について 葬想式が終わると、葬想録の購入ボタンが表示されます。葬想録の購入ボタンをクリックすると、葬想録の購入画面に進みます。プランは以下の通りです。(2021年12月現在) 葬想式の閉式後、24時間が経つとサイト上に集まった写真やメッセージが見れなくなります。この少し寂しい仕組みの裏には葬想式の願いが込められています。死別を機に、故人のいない日常へと移り変わっていく際に、変化のないデジタル上の鮮明な思い出は重荷になってしまうのではないかと考えています。一方で、紙は劣化などの変化を通じて時間経過を感じられます。葬想式を卒業し、自身の生を生き切って欲しいという願いから、紙のアルバムをご用意することにしました。 いかがでしたでしょうか。 お葬式では「思い出コーナー/メモリアルコーナー」と呼ばれる、思い出の写真や品を展示するスペースが設けられることもしばしありますが、それはご遺族が用意して参列者がみるという一方通行なコミュニケーションです。 葬想式は「参列者も思い出の写真を掲示できる思い出コーナー」となり、集まった思い出は紙のアルバムにしてお手元に残す事ができます。 御命日や故人様のお誕生日など、特別な日に合わせてご利用になる方もいらっしゃいます。 少しでも、ご関心をお持ちになられた方は是非ご検討ください。 こちらから資料請求のお申し込みをいただくと、ご指定のご住所までパンフレットをお届けします。 また、実際の葬想式の画面をご覧になりたい方はこちらより、サンプルページをご覧いただくことができますのでご活用ください。 葬想録が皆様の宝物になりますよう、心を込めて制作致します。 葬想式のご利用はこちらから
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2021年12月30日
むじょうの企業理念「変化にもっと優しく」とは何か
むじょうの企業理念「変化にもっと優しく」とは何か
こんにちは、株式会社むじょう代表の前田です。 今日は弊社の企業理念「変化にもっと優しく」に込めた願いについて書きます。 私の語りは最小限に留めますが、この理念に至ったきっかけを少しだけ綴らせてください。 私は東京都杉並区に生まれ育ち、釣り好きが高じて島根県隠岐郡海士町の高校に進学しました。海士町は地域活性化の成功事例と言われ、UIターン者も多い町です。私は東京で生まれ育ったこともあり、地域活性化という言葉に馴染みがなく、正直興味もありませんでした。 私が好きだったのは土をいじったり、魚を獲ったりする自然との戯れです。部活にも入らず地域の方の畑の手伝いや漁に同行させていただいて過ごしていました。 まちづくりを引っ張る人の目線で「町」を捉える視点はなく、一人の生活者として「10年後、この集落に人はいるんだろうか...」など「集落」の単位で捉えることがしばしばありました。 町という単位ではUIターン者も増え活性化しているけれど、その恩恵を受けない集落もある。中には、UIターン者にきてほしいとは思っていない住民もいる。このことを肌で感じる中で、地域活性化という一方通行な発想に頷けなくなっていきました。 もちろん、行政の合理性は理解できます。人口増・経済の活性化はわかりやすい指標ですし、住民の幸せを実現するため活性化というのは説明がつきます。 一方で、活性化の望みがない、もしくは活性化を望んでいない地域は幸せになれないのか。私の関心はここにあります。 地域活性化が叶わずに人口が0人になった集落は不幸なのでしょうか。そこに生きた人々がいきいきと死んでいったとして、それを不幸と呼べるでしょうか。 人口が0人へ向かう集落を限界集落と呼び、人口が0人になることを消滅と呼びますが、本当に人口が0人になったら消滅なのかと、高校生ながら疑問を抱いていました。 今、住民が0人なだけであって、そこの人が住んできた歴史があり、住民が0人になってもなお、その土地はそこに在り続けます。これは消滅ではなく、「人が住むという役割を果たした」と解釈しても良いでしょう。 ここで「変化にもっと優しく」という考え方が生まれます。人口が減り、地域活性化の物差しに乗れなくなっていく変化に対して、優しい眼差しを向けてもいいのではないか、というのが私の考えです。 ここでは集落の例を挙げましたが、日々、役割を果たし淘汰されゆくものはたくさんあります。例えば、スマホが普及したらガラケーは役割を果たし淘汰されます。これもまた一つの変化です。新しいものが急速に生み出されるようになった現代だからこそ、光の当たらないところで役割を果たしたものが淘汰されています。この変化に優しい眼差しを向けて寄り添いたい、という願いが「変化にもっと優しく」です。 この考えに根ざした会社を創っています。 アルバイトや仕事を辞める時、「やめます」と上司に伝えることにためらった経験をお持ちの方も少なくないかと思います。むじょうでは、それも人生における働き方の変化として応援します。「転職・退職という変化に優しい」会社です。 常というものは無く、万物は常に変化を続ける。それをただただ観るのが無常観です。 この「無常」という思想を変化の激しい現代に持ち込み、変化に優しい社会へ向けた事業や企画、作品を創っていくのが、株式会社むじょうです。 今日は株式会社むじょうの企業理念について書きました。 少しでも会社に興味をお持ちいただいた方はいつでもご連絡ください。 全ポジション採用中です。まずはカジュアル面談を受け付けておりますので info@sososhiki.jp もしくは代表前田のTwitterにDMをいただけますと幸いです。 今後とも、株式会社むじょうをよろしくお願いします。
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2021年12月29日